2015年8月2日日曜日

見えない因果関係と不都合な人間

  社会や政治経済を語ることは、それが一国民、有権者の立場であれ、社会現象を研究する研究者の立場であれ、昨今極めて困難である。その理由は根本的には間違った形での自然科学の発想の流用であり、具体的には見えない因果関係の無視、結論に合わせて人間の性質を都合よく構成することである。これらによって、何らかのイデオロギーに基づいた任意の結論を導くロジックが、その内容の如何に関わらず、学問的権威を伴って生産され続けている。これは学問の自壊であるだけでなく、特定の知識や論理を持つ人の発言力を不当に高め、かつ特段の責任を要求しないものであるから、民主主義の存続に関わるであろう。本論説では、その現状分析と、不完全ながらも解決策の提案を行いたい。
 自然科学においては、ある変数の影響が何に対して作用するのか明確に分離する為に、観察や実験においてはある一つの条件のみを変え、その他の要素は全て同じになるように設定した系同士を比較する。これ自体は極めて全うであり、非難されることではない。この手法の開発により、自然科学は発達し、今日の文明社会を築き上げたのは疑いようのない事実である。しかしながら、社会現象においては――例えばマンション自治会に関する法律だとか、ごく小さいものの変更を除いて――たった一つの条件だけが変わる、即ち、他の要素は変化しないのだということを要求することは、極めて強い要請である。人間は複雑な思考過程を持ち、加えて他の人間や周囲の環境に対して学習し、変化していくのであるから、一つの条件を変更して他の条件が同じということはまずあり得ない。であるにも関わらず、多くの人は文化や社会制度の変化を語るとき、「ああすればこうなるはずだ、だからこの変化は良い」といった簡単なロジックを使う。無意識のうちに、隠れた変数も同時に変化することを見落としている。尤も、人間の認知は有限であるから、全ての要素の変化を追うことは出来ないし、それ以前にそれら要素を不足なくピックアップすることは不可能である。加えて、隠れた変化を無限に言い続ければ単なる妄想であり、そのようなありもしないことを論じることには一切価値が無いであろう。しかしながら、隠れたものがあるということを忘れ――ないし、不明確なものは学問的に不純であると口実を作り――自分が導きたい結論を導く為に都合の悪い変化を意図的に見落とすのは不誠実である。特に、学問研究であり、少しでも政策に影響を与えるものであるなら、民主主義社会と有権者に対する背信であろう。国民が一票を投じる単なる有権者以上の政治権力を学者に対して認めるのは、望む結果をもたらすであろう方策を自分以上に知っていると信じているからである。学者が嘘を吐く、ましてや学者個人の要望を国民のそれより優先して叶える為に偽るということは想定していない。従って、学者は自分の力の及ぶ範囲で誠実でなければならない。閑話休題。では、隠れた因果関係を無視していると思われる例を一つ挙げよう。尤も、「隠れた因果関係を無視している」というのも、私の主観から見てのことであり、それをどう実証し、定量的に評価するか良い指標は無いのであるが。女性の社会進出に関して、あるデータがある。曰く、都道府県毎に女性の働いている割合と出生率の値を取ると、そこには正の相関があるという。そして世の中には、このデータを以て「女性の社会進出は出生率を高める。女性の労働促進は、少子化や子育てにマイナスなのではなく、プラスの影響をもたらすのだ」と主張する人がいる。私はこの主張にリアリティを感じることが出来ない。単純に、私個人の経験として、親が忙しくなればなる程あまり構ってもらえなかった気がするし、私もレポートなり何なりやるべき仕事が多くなる程ペットの世話が疎かになっている。では仮に女性の社会進出が出生率を高めないとして、この統計データはどう説明、解釈されるべきなのか。一つには、働いている割合と出生率が共に高いのは都市ではなく地方であり、地方においては大家族で祖父母との同居率が高く、祖父母に子供を預けて女性が働くことが出来るという理屈がある。この理屈が説明する世界観において、そういう女性が就いている仕事は、所謂女性の社会進出を推進したい人の想定する典型的なペルソナ、キャリアウーマンとして男性に劣らずオフィスワークを行うような、これから増えるべきだと彼らが思っている人間像とは程遠い。であるにも関わらず、彼らはバリバリのキャリアウーマンを増やすという目的の為に労働率と出生率のデータを無邪気に使うから、そのような統計データを生成したメカニズムが田舎の特徴にあると考える私のような人間は、何か隠れたものを見落としているのではないかと不信を覚える。ここまで考えてみると、この不信感は根本的に、何故そうなるのかというシナリオに欠けていることに根本的には由来するのではないかと思われてくる。この例で言えば、田舎世界観では祖父母同居の大家族と細々した内職、ないしパートタイムジョブによって統一的に説明されているのに対し、女性の社会進出が兎に角出生率を上げるのだという主張には、結論を導き得るストーリーが無い。これが、「隠れた因果関係を無視している」ということである。では、自分がものを考える時にこれを減らし、出来る限り誠実であるにはどうすれば良いのか。それは、統計データを見た時に、すぐにそれを解釈せずに、その統計的性質を再現出来る数理、ないしエージェントベースモデルを考案することであると今の私は結論付ける。当然、そうしても不完全であることには違いないのであるが、数理モデルないしエージェントベースモデルを考えるということは、その世界観の下で人間がどのように考え、どのような環境が所与のものとして与えられ、どのようなコミュニケーションが為されているのか一つの体系立った認識を作るということであるから、自分がどのようにその認識に至ったのか他の人から理解し易いし、この仮説が正しいかどうか、他の説明より妥当なのかどうかを考える際に何を調査すれば良いのかガイドラインを与えてくれる。現状、これ以上は望むことは出来ないであろう。
さて、「見えない因果関係を無視すること」、即ち、一つのパラメータ、条件の変化が他の条件を変えてしまわないと無意識に思うことによる過ちは、一つの問題を考える時のみ表出するのではない。現実世界は様々な複数の選択肢の集まりであるから、それぞれの問題で最適の選択を行ったからといって、その結果として得られる社会の最終状態が、他の選択肢を選んだ場合に比べて必ず優れているという保証は無い。合成の誤謬である。であるから、政策を考える際にはその案自体の良し悪しだけでなく、他の政策との整合性も考えなければならない、即ち、全体を統括するその人なりの価値判断、倫理体系が必要であるのに、そのことを意識している人は驚く程少ない。例えば、私の周囲の学生に話を聞くと、大抵「政府の無駄な支出に反対の緊縮財政支持、教育には予算を使い大学は無償化すべき、大学院生の就職率が悪いから大学院重点化に反対」という立場ばかり返ってくる。しかし、これらは私から見れば、自明に相互矛盾し、彼らの中には価値観の体系が無い。先ず、政府支出(ここでは主に公共事業を想定する)を減らすとしよう。すると、ケインズ経済学の教えるところによれば、需要が減る訳であるからそれに応えようとする供給も減る、従って、労働者の給料ないし人数が削られ、労働者への分配が少なくなる。さて、ここで大学を無償化するとしよう。すると、大学生のうち貧困層出身の人が増えるであろう。それは、従来では大学に通えなかった層も大学に行こうと入試を受けるようになるからであり、彼らが他の社会階層と大きな差が無く競争をすれば、それ相応に受かることから容易に想像出来るであろう。また、大学生の総数も増える。それは、大学に通うことの費用が下がったのであるから、大学に通おうとする人の総数が増え、かつ定員割れの大学が多数存在することにより、大学という教育サービスの供給がそれに応えることが出来るからである。加えて、定員割れの大学が主に需要増に対して応える訳であるから、増えた大学生の多くは低レベルの大学生がその殆どとなるであろう。ではここで、政府支出削減とこの状況を組み合わせてみよう。これから稼がなければならない貧困層出身の大学生、低レベル故に就職が厳しい大学の学生は増加したが、就職先に関しては求人の数も質も減少している。結果として、就職出来ない大学生の総数を必然的に増加させる。その上、その中において貧困層出身者の割合は今の大学生に占めるそれの割合よりも大きいのだ。いくら大学が無償化しても、大学に通うことのコストはゼロではない。その間の生活費等諸々の費用の他に、大学に通っている間には本格的に働けない、つまり高卒で就職していれば稼げたであろうお金もコストとして存在している。これが機会費用である。さて、大学に行ったことにより却って生活が苦しくなった人の数が増えることを、果たして私の周囲の学生らは肯定するのだろうか。「社会においてお金を稼ぐという形では直接役には立たなくても、深く勉強をした人物が増えることは公共の利益になる」等の主張を、堂々と主張するであろうか。いや、出来まい。もしそれが可能であるのならば、何故大学院の定員を増やす大学院重点化に反対するのか。本気で学問が重要と思うのならば、仮令就職が無くとも大学院を肯定すべきであるが、彼らはそれを否定するのだ。であるならば、どうして良い就職先を得られない大学生を増加させる政策を支持出来ようか、いや出来まい。結論として、この例が示しているのは、公共事業削減、大学無償化等の個別では人気のある政策が、それらを同時に実施すると全体としては、却って一般に好ましくないと思われている結果を社会にもたらすということである。このようなコーディネートの問題を考えるには、自分にとってどういう社会が望ましいのか、統一的世界観を持つことが必要である。全体として何を実現したいのかを深く考えないから、個々のテーマに対して一見良さそうに見える選択肢を選ぶことしか出来ず、結局どうなるのか考えることが出来ないのだ。もっと悪いことに、彼らは社会を見るメンタルモデルが先述のように統一性を欠いた誤ったものであるから、自分の選択がもたらした悪い結果が何に由来するのか正しく把握することが出来ず、自分の選択肢がもっと強く徹底されれば望む結果に近付くのだと思い込み、失敗を修正することが出来ない。より一層失敗することに精を出すことになる。これを回避するには、折りに触れて自分の持っている道徳感覚や政治的主張等を振り返り、それらの間に矛盾は無いか検証し、もし無いようであればそれらの考えを統一的に説明出来る世界観とは何かを考え、もし矛盾があるのであれば、何故自分がある問題と別の問題で異なる態度を取りたがっているのか、自分個人の善悪の感覚に立ち戻って考えることが必要であろう。そういう倫理観は感覚的なところから湧き出しているのも事実であるが、感覚的なものに対しても論理的に整合性を追求していくことは必要である。自分の善に対して素直になってしまっては、善意の下に人を殺す浅間山荘やポルポトになりかねない。
ここまで、一つないし複数の問題に対して、一つの条件を変えたところで他の条件は変わらない、都合良い結果がきっと得られるだろうと思い込むことの危うさを述べてきた。次に、そのように都合良く考える場合に多々見られる、現実の人間に対する無感覚を述べようと思う。それは実際に行うであろう人間の思考や行動ではなく、自説を成り立たせる為にモデルにおける人間の思考や行動を都合良く決めてしまうことである。一つの条件を変えても他の条件は変わらないだろうと思うというのも、根本的には一つの条件を変えても人間の反応はその条件に関する事柄のみ変化し、その他のことに関しては変化以後も行動を変えないだろうという考えから生じている。しかし、実際の社会はそうではない。一つの条件の変化に応じて人の動きが変わり、それによって他の条件に影響が波及して変化し、玉突き的に変動が広がっていく。そのようなフィードバックで動くシステムとしての複雑系が、社会ダイナミクスの真の姿である。特に難しく、奥深いのは、人間は学習して変化していく生き物だということである。仮に最終的には同じ状態になろうとも、そこに至る過程が異なるのであれば、異なることを経験し学習してきているのであるから、人間は異なる反応を見せる。同じ刺激に対しては常に同じ反応を返す物理系との違いがそこにある。個人の自由を高めることが必ず全体の利益にもなるというネオリベラリズムの主張がしばしば経済学を利用し、それが数理的には正しいにも関わらず何故か現実では上手く機能しないのも、彼らが利用するところの「経済学」は、人間の意思決定を過度に理想化、抽象化した、完全合理性として考えているからである。つまり、自由化という好ましい結論を導き出す為に、完全合理性という非現実的な人間像が恣意的に構成されている。確かに、如何なる人間もモデルを構築する上で必ず恣意的な示したい目標があり、従って彼の生み出す人間像が現実のそれから乖離することは避けられない。とはいえ、自分が恣意的であり、決して中立ではないということには自覚的である必要がある。特に、数学で社会の挙動を描画しようとすると、どうしてもモデルを単純化せざるを得ず、「それっぽい」仮定を多々置きがちであるので、注意を要する。

最後に、軽くではあるが、このように社会を考える者、特に学者が社会に対してどう向き合うべきなのか、現段階の荒削りな私案を書こうと思う。社会科学を研究している者の多くは、単なる知的好奇心や研究能力、社会科学の知見だけでなく、現在の社会に対して何らかの疑問、或いは「こうすればもっと良くなるんじゃないか」という理想を、意識せずとも少なからず持っていると私は思っている。即ち、研究者は潜在的には社会改善の意志と能力の双方を持った層であると言える。であるから、その知識を社会に対して還元することは必要であろう。公衆は社会の望ましい在り方について議論することは出来ても、その実現方法に関しては知ることが出来ないであろうから、これは一般の国民に対しても望ましいものであると思われる。しかし、ある種の社会運動に見られるような現状の、学者個人が勝手に政治に対して声を挙げるのは望ましくなく、寧ろ有害である。というのも、本人が意識せざるか否かを問わず、「学者」という肩書そのものが社会に対して強く影響する為、一個人としての発言をしただけのつもりであっても、そうは認められない、特にその学者と意見を異にする人は納得出来ないだろうからである。一個人の発言、投票というのが民主主義社会における一個人としての責任の及ぶ範囲であるが、学者が自分を一個人であると思って意思表明をすると、実際には一個人以上の影響力を行使しているにも関わらず、彼本人の認識では一個人として動いただけだと思っているから、それ以上の責任を引き受けようとしない。これは丁度、天皇が政治や社会に対する意見を言わないのと同様である。影響力の大きな個人は、最早個人として活動を許可されるべきではなく、ある程度公的な形で人より多くの責任を受け入れることを保証し、その上で大きな影響力を行使すべきである。原子力問題があれ程荒れるのも、根本的には「専門家は普段は意思決定において一般人よりも大きな影響力を持っているのに、原子力が大きな社会問題になった時にどのように責任を引き受けるのか、意思決定において公衆とどの程度に権限を分配するべきなのか」が問われているからなのであろうと思われる。工学者の立場からすれば、「政策は民主主義で決めるべきであるし、意思決定の責任問題に巻き込まれれば私生活や研究にも差障りが出るし、我々はリスクとリターンを提示するだけだ。あくまで意思決定をするのは社会である」のだろうと思うが、公衆が望む豊かな生活を叶える上で、必然的に社会のエスタブリッシュメントは原子力を導入せざるを得ず、公衆は意思決定をしたのだという意識が無い。そのエスタブリッシュメントに情報提供し、意見交換をした段階で公衆からは政策に関わったと見做される。公衆全てが賢くなり、「自分の選択で受け入れた」ということを自覚するのが困難である以上、専門家は専門家自身が意思決定に関わらざるを得ないことを自覚し、権限と責任を公衆に対してある程度可視化することが必要なのかもしれない。私は原子力に関わっている人が事故を受けて今後どうするか、安全性や利便性の向上に真摯に取り組んでいることを知っているが、それは一部の人にしか知られていないように感じられる。社会科学者が社会について発言する時も、どういう影響をどの程度与えるから自分はこれだけの責任を負いますよということを、どう分配すれば公衆が納得し、社会的に受容出来るか議論が必要であろう。しかし公衆、一般の有権者の側にも、意思決定の責任意識が必要だと私は思う。少なくとも大学生以上の知的階層には必須である。即ち、社会に何らかの要求を持つ時に、その要求されるものを維持する為に何らかのコストを支払う必要があり、一見突然降って湧いたように見えるリスクやコストも、実は自分の意思決定に伴う必然だったと受け入れる覚悟である。例として原子力を挙げると、もしそれをすぐさま無くそうとすれば火力の発電量を増やす為に大量に化石燃料を輸入し、かつ火力発電所のメンテナンスを減らすか、ソーラーや風力の為に多くの森林を切り払って土地を作り、かつそれらの廃棄の為の工場設備を作るか、地熱の為に地下重金属のリスクを受け入れるか、また発電量の減少に伴って日本の産業が衰退し、労働環境と生活水準の低下を受け入れるか、またはこれらの混合を呑まなければならない。また、原子力産業の衰退に伴って、将来の高速増殖炉、核融合炉等の実現も恐らく諦めることになる。その場合、他国がこれらを商用化した後に技術やら特許やらで色々派生する影響もあるだろう。これらのカウンターリスクを負担する意志と、その試算が無ければ、仮令原子力それ自体に関してどう思っていようとも、有権者として責任を負わなければならない。望む結果を維持する為には、何らかのコストが要る。民主主義国家における公共の意識とは、このように政治的意思決定について責任を負う覚悟に他ならない。民主主義国家の維持存続には、このような有権者の公共性に関する教育が必要なのかもしれない。

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